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1940年3月、東京都足立区千住高砂町で、義男・知恵の4男として誕生。
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1942年、2歳のとき、水害の多い千住高砂町から、杉並区下井草へ移転する。
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1945年東京の空襲が激しくなったため、母の実家栃木県下都賀郡石橋町へ疎開する。
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杉並区下井草は、荻窪に中島飛行機があ
り、ゼロ戦の製造をしていたことから、戦時中は空襲が激しかった。
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近くの中瀬に高射砲陣地もあったため、疎開したのです。
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終戦後は、地元に帰り、杉並区立桃井第5小学校を経て、高射砲陣地のあった跡地に建てられた中瀬中校を5期生として卒業後、東京都立中野工業高等学校へ進学、食品化学
科を専攻する。
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卒業後は、長兄の兄の経営するゴムの業界新聞の記者として昭和48年まで勤務。当時シリコンゴムのすぐれた特徴に魅せられて、信越化学工業の石田譲二氏と
懇意になりシリコンゴム製品の普及に努めました。
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今も残るシリコンゴムメーカーのサンプル見本帳は、石田氏と小生が造り上げたもので、現在でも使われてい
ます。
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その後独立し、健康食品の販売やシリコンゴム製家庭用品の開発に注力するも力及ばず昭和52年に撤退する。
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その後、シリコンゴムのスイッチの開発営業をサラリーマンとして歴任するも、又も独立し吉田技研でシリコンゴムのキーボードスイッチを
世界で初めて開発し
た。
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当時、友人の北島健一氏が懇意にしていた酒井邦恭氏が主宰する太陽グループで、キーボードの製造を計画、大昌エレクトロにクスを創立し
常務取締役として、シリコンゴムスイッチのキーボードの生産普及に努めた。
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その後、アメリカATARI社のコンピューターキーボードスイッチの製造を受注し製造を開始した。
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そのさなか、大昌エレクトロニクスは、太陽グループの太陽エレクトロニクスと合併し、インテグランを設立する。
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しかし、インテグランは、DCDCコンバーターやモデムの製造に注力することになり、コンピューターキーボードの製造を中止する方針となり、小生の開発したキーボードであったことからやむなく
キーボード製造販売の商権を得て独立しATARI社のキーボード製造を引き継いだ。
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しかし、1990年に1ドル85円と言う急激な円高に遭遇し、ATARI社はキーボードの生産拠点を台湾に撤退する
ことにし、1991年1月を持って設備等を譲り渡しました。
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そんな時、シリカ・チタン・ジルコニウムほか数種のエネルギー
宝石と鉱石をナノテクで微細化し
た機能性セラミックを開発した藤田先生に出会い、創りあげたのが機能性シリコンゴム「ドクターシリコン」でした。
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機能性シリコンゴムは、開発当初は色が付いて汚らしく、何度も良い方法が無いかと試作を繰り返し、シリコンゴムの素材から造る事に着目し
ました。
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そして特殊な設備と方法で
色が付かない方法と遠赤外線が安定して放出でき、しかもマイナスイオンも発生する機能性シリコンゴムを造る事に成功しました。
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早速、
骨盤バンドの金型を製作して骨盤ベルトを造りテストを始めたところ、20年苦しんだ腰が驚くほど腰が暖かく快適になることがわかり
、量産に踏み切りました。
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機能性シリコン(ドクターシリコン
- Dr.Silicone)は、身に着けると身体に良い影響をもたらすことが分かったことから、あらゆる健康用品を考案しご提案することにし
今日に至っています。